【解説】高田屋嘉平

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◆高田屋嘉平
 江戸時代の商人のお話。淡路島出身で大阪で商売をしていた人で、高田屋嘉平といいます。彼は北海道の物産を関西に届ける物流をしていました。

◆と、その前に、沼島の漁師の話。
沼島の漁師は、その港の大きさからは考えられないほど大きな海を持っていました。四国のギリギリから、淡路島のギリギリ、紀伊半島のギリギリまで。なぜ、そんなに広い海を持てたのか。江戸時代、各地のお殿さまは参勤交代をしていました。普通想像する参勤交代といえば大名行列ですが、四国のお殿さまは違いました。船で江戸を目指したのです。大名行列を豪華にするように船旅も豪華でした。お殿さまは大きな船に乗ります。その周りを多くの小さな舟で囲みます。この小舟の役目を沼島は担っていました。四国のお殿さまは「常に若い男を129名用意しとけ。」と言い「その代わりに、沼島の山のてっぺんから見える範囲の海を好きにしてええ。」と沼島に言いました。広い海を持っていても天然の魚を相手にしていると、いいときもあれば、悪いときもあります。一般に漁師は、海が悪ければ、何か違う魚を工夫したり、よくなるのをじっと待ちます。沼島の漁師の中には、沼島の海が悪ければ他へ行こう、という者がいました。北へ行った者は北海道まで、西へ行った者は東シナ海まで行きました。行った先では、まさか魚をぶんどったりはしません。現地の港で魚を売り、部金を納め、売上金を持って帰りました。

◆やっと、高田屋嘉平

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 北海道で仕事をしている嘉平に幕府の偉い人が用事を頼みに来ました。北海道の北、北方四島のさらに先のウルップ島へ連れて行けと言うのです。最近のウクライナのニュースのように、ロシアが南下してきており、その様子を確認しに行くと言うのです。嘉平は船はありましが、乗組員を探さなければなりませんでした。北海道の地元漁師らにウルップ島行きの船に乗って欲しいと声を掛けます。北海道の漁師らは「あんなに遠くはちょっと、、、」「あんな荒れた海は行けません。」などと断ります。
 ここで、沼島の漁師です。ちょうど北海道へ遠征に来ていた沼島の漁師が、この話を聞きつけます。「そんなことやったら、行ったろか。」こんな言い回しだったかは分かりませんが、沼島の漁師らが高田屋嘉平の船に乗り、幕府の要人をウルップ島へ連れていくこととなりました。ウルップ島へ無事たどり着き、さらに要人を江戸まで送り届けました。高田屋嘉平はこの働きを大変気に入り、沼島の漁師はしばらく嘉平の船乗りとして働きました。沼島にはこの当時のメモが残されています。メモによると現代でいうところのボーナスが支払われたとなっています。

◆神宮寺の石碑
 司馬遼太郎氏の『菜の花の沖』という小説があり、高田屋嘉平の物語が書かれています。

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その中に、沼島について紹介されているところがあります。7巻もあるお話の中のわずか数行ですが、沼島の人が聞くとニヤニヤしてしまいそうな内容です。神宮寺の住職も気に入って、その部分の抜粋を石碑にしました。
『沼島は小さい。ほとんど岩礁のおおいなるものという程度の小さな島の住人ながら、船や船具、操船、航海に独自の開発をするところが多く、しかも豊臣朝からはるか対馬沖にまで行って操業するという気概をもっていた。島の近くには鳴門の瀬戸があり、あるいは由良の瀬戸があって、潮と風と波という地球の機嫌のなかでもっともやっかいなものについては、卓越した知識をもっていた。世界中で小島の住民は多いが、沼島衆ほどに気概と高い能力をもっていた海の民は、まれなのではないか。』
 

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