【解説】源平合戦(梶原景時)

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◆源平合戦(梶原景時)
 まずはじめに、歴史というのは、その記録を残した人の思想や都合がふんだんにあり、どこまでが正確かわかりません。その上で沼島に伝わる話をお伝えします。私は沼島のガイドなので沼島側のお話です。

戦闘機

 戦いにおいて、現代では、ドローンやロケット、ミサイルや戦闘機など空の戦力が大きい方が有利なように思えます。しかし、源平合戦のころ、もっというと、飛行機が活躍する近代までは、船すなわち海の戦力が非常にものをいう時代でした。

 源平合戦では、はじめ紀伊半島、和歌山の水軍と、沼島の水軍が、やや遅れて徳島の水軍とが、平家に味方しました。強い水軍が味方に付いたことで平家は圧勝しました。逃げて行った
軍艦
源氏の中に有名な源頼朝がいます。のちに鎌倉に幕府を築く人です。逃げて行った源氏を追いかけた部隊のひとつに梶原景時がいました。景時は頼朝が隠れている洞くつを見つけました。しかし、なぜか助けてあげようと考えたようです。拾った枝でクモの巣を洞くつの入り口にかけたりと工作をし、部下には「向こうの山があやしいから向こうの山を探せ」と言いました。
 その後、力をたくわえた頼朝は鎌倉に幕府を築きます。昔、見逃してもらったという縁があったので、頼朝は景時を鎌倉に呼び、景時は頼朝に、鎌倉に仕えました。頼朝と景時は年齢は近かったのですが、頼朝が先に亡くなってしまいます。元もと源平合戦で平家側で戦っていたり、頼朝の死後の源氏の中のごたごたなどがあり、景時は身の危険を感じました。景時は鎌倉にいる梶原の一族を集め、鎌倉脱出を考えます。
航路
 船で太平洋を通り、紀伊水道から大阪湾へ、そこから京都へと考えました。しかし、鎌倉の海は鎌倉武士の目があります。そこで梶原は山を越え現在の静岡県、駿河を出発地としました。

 源氏側の話によると「たまたまそこにいた」。沼島の話では「作戦がばれていて待ち伏せされた」。いづれにせよ、駿河には敵兵がおりました。梶原景時は敵の攻撃により斬られてしまいます。ここからは更に、源氏側と沼島の話で温度差があります。源氏側では、このとき梶原景時は亡くなったとされています。今でも、梶原山公園という公園が小高い山の上、とても見晴らしのいいところにあり、そこには梶原景時終焉の地という大きな石碑があります。
 一方、沼島の話。どうやら景時が斬られたのはその通りの様ですが、周りにいた一族が何とか斬られた景時を船に乗せ、計画通り船で出発したのです。船に乗せたときに景時の息があったかなかったは触れられていません。当時、大阪湾へ入る船は、ほとんどが沼島に停泊しました。というのも、大阪湾の入り口、紀伊半島と淡路島の間、紀淡海峡は潮の流れが速いからです。大阪湾の満潮や干潮にともなって大量の海水が出入りします。そのためエンジンのない当時の船は沼島に停泊し、いい天気、いい潮になってから大阪湾へ進みました。景時を乗せた梶原の船も同様に沼島に停泊しました。かつて、沼島水軍は梶原とともに戦っていました。そのため、梶原は沼島に顔なじみがいました。梶原は京都へ行くことをやめ、沼島を治めました。
 沼島では初代のお殿さまは梶原景時。最後のお殿さまは梶原秀景。と伝わっており、二人のお墓とされる、梶原五輪塔があります。石の年代を調べた専門家がいるそうで、その調べによると時代は合っていそうです。また、お墓の形、五輪塔は身分の高い人のものでもあり、沼島に伝わる話など総合的に考えると景時と秀景のお墓で間違いなさそうです。

 なお、沼島を治めた梶原は、元もと鎌倉に仕えていたので、鎌倉の文化や風習なども多少影響を受けました。鎌倉には鶴岡八幡宮があります。沼島を納めた梶原も鎌倉にならい、同じ京都石清水八幡宮から分社し沼島八幡神社を建立しました。

 余談になりますが、インターネットで調べものをするときにウェキペディアを利用する人も少なくないと思います。私個人的には専門家のみならず不特定の素人でも編集できる情報は鵜呑みにしませんが。2016年か2017年ころウェキペディアで梶原景時を調べると、沼島にあるお墓、梶原五輪塔が写真付きで記事になっていました。その後、ウェキペディアの方針か何かで文字での記録のない歴史についての掲載をしなくなったとか何とかかんとか。現在、2024年12月では梶原景時のページから沼島の記事が一切合切削除されました。梶原景時の例もさびしい気持ちになりますが、口伝のような文字にならない伝承がインターネット上では探しづらく、インターネット上の情報だけを鵜呑みにしている人がたくさんいるだろうことに、さびしいような悲しいような気持ちになります。

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