【解説】梶原秀景(殿の飛び)

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◆梶原秀景

 沼島の初代のお殿さま、梶原景時から数百年。梶原秀景(ひでかげ)が最後のお殿さまとなります。秀景の最後を聞くには、その前に、沼島の地形を理解しておく必要があります。

 沼島は港の周辺のわずかなところしか平らな土地はありません。その他は山になっており、海岸線は、ほとんどが崖です。人びとは港周辺に密集して暮らしています。お殿さまのお城は、港周辺の小山のてっぺんにありました。沼島に攻め込む敵兵は、港の正面から上陸するしかありません。沼島には沼島水軍という、とても強い人たちがいました。少しの敵勢なら、海を得意とする沼島水軍が蹴散らします。当時のあちこちの武将たちには、沼島を含め、水軍というものの本拠地は落とせないものと広く知られていました。

 しかし、ついに戦国の世の常識を覆す大物武将が現れました。四国徳島県の三好長慶です。歴史好きな方ならご存じ三好。私は正直、沼島のガイドになるまでは知りませんでした。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など有名人より先に天下人となった武将です。四国のお殿さまは、沼島水軍が強力なことをよくわかっていました。なので、過剰なほどの大軍で沼島を攻めます。

 戦いの当日、梶原秀景がお城から港を見ると、見渡す限りの海が敵の船で埋め尽くされていました。普段、目にするくらいの攻撃なら、水軍が蹴散らしますが、数が多すぎます。防ぎきれないと判断した秀景は、馬に乗り、港から一番遠い山へ逃げます。敵にやられるなら自害しよう。そう決心した秀景は、馬に乗ったまま、崖から海へと飛び込みました。この岬は、その後、殿の飛びと呼ばれ、最近ではのが省略され、殿飛びと呼ばれています。

 また、この出来事は、沼島にしては珍しく記録が残っており、1581年の出来事です。この年に有名な出来事は見つけられませんが、翌年1582年は本能寺の変など、世の中が戦いまくっていた時代の話です。


◆おまけ

 「沼島にしては珍しく記録がのこっており、...」わざわざこんな言い回しをなぜしたか。沼島に限らず、全国的に漁師町というのは文字での記録が残りにくいそうです。同じ一次産業でも、農業、農家の方々は、水路を作り水を分けるなど、約束事かたくさん発生します。トラブルを未然に防ぐため、文字で記録に残す習慣があるそうです。一方の漁業、漁師は、一軒一軒が船を出し魚を獲ります。自分たちの得意な場所、漁場や、魚を獲るテクニックなどは他の船に教えたくありません。自然と口伝が好まれます。このような習慣の違いから、漁師町というのは、文字での記録が残りにくいそうです。

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